CASIO×MAU産学共同プロジェクト
WORKS

異文化間コミュニケーションのためのヒント

石野 シャハランさん(いしの しゃはらん シャハランコンサルティング)

22歳までイランで育ち、2002年に来日。東海大学別科で日本語を学んだ後、学部生に進み、卒業後は日本企業2社、ドイツ企業1社に就職・転職した。そして2019年1月、外国人人材と日本企業を結ぶためにシャハランコンサルティングを設立し、アドバイスや研修などを行なっている。

Member

モデレーター:越永 璃音(こしなが・りおん)
取材チーム:結
越永 璃音(クリエイティブイノベーション学科・1年)
譚 林宣(環境形成領域・博士後期課程1年)
石塚 詩織(芸術文化学科・3年)
大塚 功(カシオ計算機)


Synopsis

人とコミュニケーションを取ることはとても難しいことです。相手の顔色を伺ったり、機嫌をとったり…その相手が先輩や上司、また、異文化を持った人だったとしたら余計に気を遣うと思います。皆さんは自分が今まで触れてきた文化やアイデンティティと違うものに遭遇した時、目を背けてしまったことはないですか? 「関わりにくいな…」、「なんて話しかければ良いかな…」、そう思って勇気を出せずに終わってしまったことはありませんか? でも、きっと相手もそう思っていたはずです。どうやって話しかけるべきか考えていたはずです。石野さんはそういった異文化間でのコミュニケーションに悩む友人を何度も目にしてきました。中にはそれが原因で日本を去ってしまった方もいるそうです。そんな彼らと直接話してヒアリングを重ねていく中で、石野さんは、会話の仕方をあと少し変えるだけで、双方があと少し協力し合うだけで、コミュニケーションが上手くいくことに気がつき、彼らの役に立つためにシャハランコンサルティングという会社を設立しました。その背景には、多民族国家であるイランでの環境や、移り住んだ日本への想い、そして何より友人を助けたいという気持ちが大きく関わっています。そんな石野さんからこのセッションで、日々のコミュニケーションのヒントをもらいに行きませんか?


Session

参加者:異文化があることを意識していないとうまくやっていけないということだったんですが、逆に私の経験ですと異文化を意識しすぎてどのようにコミュニケーションを取ればいいかわからなかったり、常識の違いから失礼なことを言ってしまうのではないかと不安に感じたりするのですがその点についてはどう考えますか。

石野さん:面白い目線ですね。確かにあるかもしれませんね。でも自分の言葉で当たり障りのない普通の会話をすればいいと思います。「ここまでどうやって来ましたか」、「何分かかりましたか」など身近な最近の話からはじめたらいいと思います。内容の深い話から入らずに、まずは普通の話からコミュニケーションをとってみればいいと思います。

参加者:奥さんはどちらの国の方ですか?

石野さん:日本です。だけど異文化とか多文化とか国は関係ないんですよね。隣の村も隣の街も異文化なんです。隣の家だって異文化なんですよ。

参加者:確かに!

石野さん:私は5歳の娘がいますが日本人の妻と家族3人で同じテーブルでご飯を食べていても文化が違うんですよね。だからそういう小さいところを意識していかなければいけない。宗教や食事など少し違うだけで異文化ですからね。


From Student

多文化共生が作る枠組み
越永 璃音
(こしなが・りおん クリエイティブイノベーション学科・1年)

今回このプロジェクトに参加して私はあえて「多文化共生」という枠組みを作る必要はないと思いました。「多文化共生」の響きはなんだかとても良いことをしているような、なんだか意識が高い人が考えていることのような印象を受けます。それは「多文化」も「共生」も普段からあまり使う言葉ではないし、意味が分かりやすいようでどこか分かりにくいからです。だからこの言葉を聞いただけではなかなか勉強してみようと、一歩踏み出すことが難しいのだと思います。勿論このプロジェクトを経験したからこそ、多文化共生という言葉があるだけでこの議題についてどれほど人に伝えやすいか分かりました。しかし実際の「多文化共生」の本質はこの言葉には無いと思いました。なぜなら結局この言葉から伝わってくるものは漢字から読み取れる言葉の意味だけで「多文化共生」から私たちが読み取るべき本当の意味はこの言葉からは伝わってこないからです。

わたしは石野さんのセッションの担当でした。二回目の取材で、石野さんは「完璧な人なんていませんから、自分が一番偉いと思ってはいけないです。」と話していました。その言葉を聞いてハッとさせられました。自分は今まで俯瞰的にこの問題について考え、日本におけるマイノリティの人との接し方の答えを探していました。しかしその考え方から間違っていました。自分がどうしたら彼らを救えるかなんて上から目線に考える必要はありませんでした。ただ相手を一人の人物として捉えて、ただその人に向き合えばよかったのです。勝手にカテゴライズしないで、ただ一緒に会話をすればよかったのです。多文化共生と枠組みを決めて大学で答えを探していたものは、小さい頃から大人が子供に言い聞かせてきたような当たり前のことだったと分かったのです。異文化との関わり方や共生の意味を永遠に考え続けて悩んでいたことはただ言葉によって内容を難しくしていただけで本質的な問題はその言葉には関わっていませんでした。この問題は異文化とか外国人とかそういった枠組みごとの問題ではなく個人個人の問題だったのです。様々な枠組みに対して、またその枠を作るためにつけられた言葉に対してどう向き合っていくかではなく、個人個人にどう関わっていくかが大切だと気がつくことができました。

多文化共生とは何かという問題については、はっきり言葉を当てはめることはできません。でも、多文化共生を目指す人々が求めていることは、多文化共生という言葉に執着することではなく、ただ純粋に世界中の様々な人と向き合うことだと思います。〇〇な人と決めつけたり、バックグラウンドで判断したりせず、話しかけてみて、笑いかけてみて、思いやってみて、そうやって触れ合うことで自然と「多文化共生」という言葉を使う人々の真の理想が現実になると思います。

半年間授業で多文化共生について勉強してきましたが、言葉が持つ意味を理解することはとても難しいことだと思いました。今回も自分の答えを見つけるまでにかなり遠回りをしたと思います。でもこの授業で、言葉の意味や定義を疑ってみることが物事の本質を捉えることにつながっていると気が付きました。今まで当たり前のように言葉を構成して文章を作っていましたが、今は少し言葉に重みがある気がします。これからも一つの言葉に対して考えたり議論したりする機会があると思います。そんな時はまず世間一般に捉えられている意味合いより、自分がどう捉えるべきか考えていきたいと思います。