CASIO×MAU産学共同プロジェクト
WORKS

自分にできること、自分がやること

松井 孝浩さん(まつい・たかひろ 文化庁)

愛知県出身。タイで6年間、フィリピンで3年間、日本語教師を経験する。国際交流基金、鶴見国際交流ラウンジ館長などを経て、2019年7月より文化庁国語課専門職(日本語教育)。

Member

モデレーター:田中 椋平(たなか・りょうへい)
取材チーム:rhythm-mix
柳 廷和(視覚伝達デザインコース・修士課程2年)
田中 椋平(デザイン情報学科・1年)
王 鑫(芸術文化学科・3年)
松本 貴美子(カシオ計算機)


Synopsis

「自分には日本より海外の方が楽でしたね、同調圧力のようなものがなくて」
海外で生活や旅行を何度も経験してきた松井さんは、海外の自由さに惹かれ日本を飛び出しました。しかしその先々で、人それぞれに事情があることを実感し、その環境で自分ができることについて考えました。
多くの国での生活は「自分に何ができるのか」ということについて考えるきっかけになった、といいます。

帰国後、横浜市の鶴見国際交流ラウンジ館長として、外国にルーツを持つ子ども達と、その家族の支援に携わってきました。
その中で、フィリピン2世の子と出会いました。起源が海外にあることを悩みとしていた彼女を前に、自分のルーツを誇りに持ってもらいたいという松井さんの想いから、漫画「ホセ・リサール」(フィリピンの革命家)の原作を務める決心をしました。その後、ご自身が現場にいたからこそ肌で感じたことと経験を踏まえ、そもそも国内国外の差で悩みが生まれないような、自分と他人それぞれをポジティブに考えることができるような仕組みを作ろうと文化庁に移られました。
皆さんがそれぞれの自分のできること、やりたいことについて考えてみる機会になれば、と思います。


Session

参加者:自分は難民の子の教育活動をしています。その中で子供たちは宗教上の理由で同じ給食が食べることができない場合があります。それを見て「みんな一緒に」「みんなで仲良く」などをスローガンとして掲げがちな日本でも、周りと違う行動をとらざるを得ない海外にルーツを持つ子どもたちは特別扱いを受け、悩んでいる事が多くいるのを知りました。様々な活躍をされてきた松井さんは、海外ルーツの子供たちへの日本の対応をどのように感じておられますか?

松井さん:前職で鶴見区で国際交流ラウンジの施設長をしていた事があります。その中で生徒の2割が海外ルーツの小学校を担当させていただいていたことがあって、今もPTAには懇意にさせてもらっています。その方達と話す中で見えたのは「子どもはよく大人たちの事を見ている」という事です。一概には言えませんが、子どもは大人の鏡で表現方法がよりストレートになるんですよね。子供の問題を考えることはイコールで大人の問題について考えることなんです。日本では「みんなと同じである」というのはとても心地がいいという感覚が根付いていて、その中で浮いた行動をとる人を見る目は変わってくると思います。でもそんな空気とは逆に「みんな違ってみんないい」と言葉が蔓延しています。確かに個性があることを否定するような方は少ないと思います。ですが大人になった時の社会のルールは未だ個性を大切にしようという作りにはなっていません。
 他人が自分と違う、ということに幼少の頃から当たり前としてあるのは私たちの目指すべき”多文化共生ネイティブ”という存在につながると思います。鶴見区の小学校でも先生が慣れて一々騒がないという風な土壌があるんですよね。子どもがちょっかいを出すのは大人の戸惑いに気付いてるんじゃないかな、と思います。


From Student

たぶん少しずつ馴染む
田中 椋平
(たなか・りょうへい デザイン情報学科・3年)

私は「多文化共生」という聞いたことのありそうでない、分かりそうでよく分らない言葉にこの授業で初めて出会った。多文化と共生という二つの言葉が合体したこの言葉を、私は「グローバル的な意味合い」や「隣人を他人と理解し合い生活を送っていくこと」と捉えていた。互いが互いの違いを理解し共に生きる。9月の時点でのほぼ正解といえるこの解釈を、知識としての理解ではするだけでなく、当たり前に自分の感覚として自然体で持てるか、を自身の生活上で考えた3ヶ月の準備期間とイベント当日だった。そのことに気付いたのには2つのタイミングがあった。

1つは12月頭にあったイベントのタイトルと概要文決めの際。
「本イベントでは学生から社会人まで幅広い世代の人々を交え、多文化共生に関わる語り手のお話を聞き、対話を通して多文化共生を自分ごとにする機会を提供します」
この一文からメンバー全員が多文化共生が何かハッキリ説明できる程理解できているのか、運営に回る自分たちは多文化共生を自分事にできているのか、という壁に当たった。「多文化共生とは」については第一回の対面授業の時はそれぞれに発表し、話も盛り上がっていた。しかし12月には全員が「分からない」と口にし、話が硬直し黙り込む時間が生まれた。

この話題についての9月と12月の空気の重さの差がとても印象深い。
12月の皆はそれぞれに話し手とのインタビューを通して多文化共生への解釈を各々持っていた。また人のソレと自分のソレにはそれぞれ小さな違いがあり、その小さな違いこそが重要だと考えていた。メンバーは個々人の小さな想いを全員分をうまくまとめて言語化できず、しかし省略するにはあまりに重要度の高すぎると感じるジレンマの中にいたのだ。
今思うにあの空間こそ、互いに同じ方向を向いていても違うところがある、ということを認識しているという意味で多文化理解が成された空間であったと感じる。

2つ目は話し手の方の紹介あらすじを作成している時。

この時は、言葉選びが重要なポイントとなった。担当の松井さんのあらすじ初稿にて、私は「フィリピンのハーフの子」という表現を用いた。私が何の気なしにつかったこの表現は「受け手が不快に思うかもしれない」という指摘を頂いた。確かに普段の会話ではよく使う表現ではあるものの文脈上ハーフという言葉には差別的意味を含まれている。本人は快く思わないであろうことに指摘されるまで全く気付けずにいた。他人の人生を文にするというのはその人のパーソナルな領域に立ち入ること。決して自分の話ではないので、自分の無意識の偏見や意見が出てこないように言葉を選ぶ必要がある。自分では言ってもいいけど、他人に言われると不快に感じるという場合が多々あり、それには要注意なのだ。相手の立場になって考える、というのは小学校でも習うようなことではあるが、言葉での表現の難しさを実感した体験だった。あらすじの執筆では何度も立ち止まり取材のビデオを見直し書き直した。相手が受け取る文章は非常に難しいことではあるが、慎重に向き合うことできっと適した言葉は見つかるし、向き合う姿勢は相手への理解を深めることに繋がる。言葉選びはこうした配慮の一つのカタチとして現れた部分であったと思う。

こういった2つのタイミングは私がたまたまこの多文化共生発信プロジェクトに参加できたことで得ることが出来た知見だと思う。また今回参加してくださった方にとっての”タイミング”になればと意気込み、私は参加した。最後に色んな方の感想を聞く中で、今回のイベントは多文化共生を広める画期的なアイデアが生まれる訳でも、自分の考えが大きく変わったわけでもないが、大人たちの「少しずつ理解していこうという姿勢」を作ることの第1歩になったと感じた。今の私のように、理解しようという姿勢を意識している以上自然体とは言えない。でもその意識はいずれ子供たちに伝播し、所属や属性で作られるような壁のない”多文化共生ネイティブ”へとつながるのだと希望を持つことができた。いつか今回のイベントのことを「古臭い。今更過ぎる」と感じる世代が生まれたら今回のイベントは成功したといえると思う。