CASIO×MAU産学共同プロジェクト
WORKS

日本にいる外国の子どもたちのために

佐々木 聖瞾さん(ささき・せいしょう 横浜市市役所職員 多文化ユースプロジェクト)

中国瀋陽市出身。中学校卒業後に来日。フリースクールに一年間通って、高校と大学に進学した。横浜市の公務員として勤務する傍ら、外国につながる子どもたちの進路や学習支援を行う「多文化ユースプロジェクト」のメンバーとして活躍している。

Member

モデレーター:譚 林宣(たん・りんせん)
取材チーム:結
越永 璃音(クリエイティブイノベーション学科・1年)
譚 林宣(環境形成領域・博士後期課程1年)
石塚 詩織(芸術文化学科・3年)
大塚 功(カシオ計算機)


Synopsis

「皆に知られていない外国籍の子供を支えたい」

幼い頃に両親の仕事の関係で来日した外国の子供たちがたくさんいます。日本語すらうまくできない幼い彼らにとって、周囲からの支援はどれほど大事なことでしょう。そのような支援を目的に佐々木さんと仲間たちは多文化ユースプロジェクトを創立しました。

中学校を卒業したばかりの佐々木さんは両親の仕事の関係で日本に来ました。彼はフリースクールで日本語を学んで、外国人のための特別入学試験「在県外国人等特別募集枠」で高校に入学しました。しかし、たった一年で両国間の文化的ギャップは越えられません。高校に入学したばかりの佐々木さんは、日本人のクラスメイトとコミュニケーションをとる機会がほとんどありませんでした。そんな彼に声をかけてくれたのは「やんちゃ」なクラスメイトたちでした。そして、佐々木さんは、日本人とのコミュニケーションの第一歩を踏み出しました。しかしながら、佐々木さんのような幸運な人はまだ多くありません。佐々木さんは、自分と同じような経験をした後輩たちのことを支援したいと思い、多文化ユースプロジェクトの活動に取り組み始めました。


Session

参加者:佐々木さんが日本に来たきっかけを教えてください。

佐々木:両親の都合で日本に来ました。4歳の時、お父さんが、8歳の時、お母さんが日本に来たんですね。15歳まで中国にいたんで、7年間はおばあちゃんと一緒に暮らしました。中国では、いわゆる愛国教育を受けていたため、日本に対するイメージ正直良くなかったんですね。でも両親と一緒に住めるという想いで日本に来ました。日本にすごく来たくて来たというわけではありません。これは、私が支援して来た中国につながる子どもたちの多くに共通していることだと思います。ことばも通じない、知り合いもいないという中で、孤独を経験している人が多いです。

参加者:後輩たちの学習支援の活動をするようになったきっかけはなんだったんですか。

佐々木:大学生になって、高校の後輩たちの生活が心配なのと好奇心もあり、高校を訪ねたんです。そこで、一緒に生きる共生ではなく、別々にいるだけの共存になってしまっていると先生から聞きました。それをきっかけに先生たちからいろいろ相談されるようになったり、学校説明会の通訳を頼まれるようになりました。通訳していると、全然日本語がわからない生徒がだんだん増えてきたんですね。で、この問題はどうにかしなければいけないと思いました。それから神奈川県とやりとりしたり、文化庁とやりとりしたり、いろいろ活動してきました。


From Student

「無力」を知り、「力」になり
譚 林宣
(たん・りんせん 環境形成領域・博士後期課程1年)

私にとって、多文化共生はなくてはいけないものだと思います。
多文化共生プロジェクトに参加する前は、「多文化共生」は難しいものと感じなかったので、深く考えたことはありませでした。中国の大学のクラスメイトは皆漢民族で、広大な中国の隅々からこの大学にやって来ました。地域によって人々は異なる言語の習慣と食生活ひいては価値観を持っています。この大学生活が私と「多文化共生」との初対面だと思いました。

その後日本に来て、日本語学校のクラスメイトの髪の色、瞳の色、肌の色が、「私たちが皆違う」ことを語りました。グローバル化が進む日本には、より複雑で多様なコミュニティがあります。日本語だけが公式言語になっているこの国に、中国語で語りかけてくる人によく出逢いました。そうした時、自分も同じ大きなコミュニティに属していると思えて、中国にいたときに考えていた民族や文化の違いなど忘れました。

私は横浜市職員の佐々木聖瞾さんの取材を担当しました。取材は日本語で行いましたが、彼の中国東北部のアクセントが混ざった日本語を聞くのは、難しいことではありませんでした。彼は私が過去に会った日本の留学生とは違いました。私の周りの中国人のほとんどは、日本語学校で勉強してから、それぞれの大学に通っています。高校卒業は日本語学校に入る最低の条件であるため、皆は十八歳以上です。しかし、彼は中学校を卒業してから、両親に日本に連れられて来ました。そのため、まだ若い彼は日本語学校に入ることができませんでした。日本語を触れたことのない彼にとってこの不案な国で人生で一番つらい時期を過ごしました。彼は難解な日本語と、自分を理解しようとしない両親のせいで、学習意欲を失いました。今回の取材のおかげで、私と佐々木さんは友達になって、彼の友人たちにも会うことができました。彼らも幼い頃に両親の都合で日本に来た中国人です。彼らは自分と中国にいる人たちが異なるコミュニティであることを自覚しています。中国に戻っても、中国にいる同世代の友人との距離感があるようです。私と彼らは中国語で話し合いましたが、言葉と言葉の間に日本人の繊細さと厳しさを感じて、奇妙に感じました。誰もがユースプロジェクトのメンバーです。幼い頃に同じつらい体験をしたため、同じ状況にいる後輩たちを支援したいと考え、集まりました。彼らとの対話を通して、「多文化共生」には、人々の努力が必要なことがわかりました。

私も大学卒業して、留学生として日本に来て、言語と文化の関係で、うまくいかないところがたくさんありました。その無力さを感じる経験があるため、後押しする力の大事さがわかるようになりました。私はこの無力さを力になり、佐々木さんの誘いを受けて、日本にいる外国の子どもたちの支援活動に参加することに決めました。また、これからは「多文化共生」に対する理解が徐々に深まっていくと考えられます。